文学作品における結婚
文学作品を読んでいると、結婚問題が出てくることがしばしばである。
多くの青年は、時期がくると嫁をもらう。
その嫁というのが、多くの場合誰かが探してきてくれるのである。
見合い、というのもあり。
けれどもそんな手順を踏まなくても、仲人(になる人)がこれ、といった人を事前にちょっと紹介して、双方の家にとって問題がなければ話を進めるというもの。
問題もなく、かつ滞りもなく話がすすむと、いつの間にか結婚式という段になる。
それで結婚して、夫婦としてその先の一生を生きていくのである。
こんな描写があまりにも多いことに驚いて、私は昔の日本の結婚観というものに対する見解を、一体どうしたらよいのか現状思案しているのである。
ほとんどあったことのない人と結婚しておきながら、その件についての心理描写もまたほとんどないのが文学作品であるとも言えるであろう。
そんな風な態度が、私にとってはどうしても、結婚、ひいては相手の人間性に対する軽視としかみえない。
相手がどういう人間であるかや、どういう人生を歩んできたかについては一向構わない。
ただ単に、体裁や便宜上結婚するに過ぎない。
そんなような態度に思えるのだ。
ただ、あくまで私がそう判断するのも、当時の文学作品の表現の上になっているわけなので、実際のところは分からない。
その時代時代によって、男女観というものは違っているのは否めないからである。
もちろん、作品の中にも惚れただのはれただのという描写が出てくることも多いので、好きな相手と添い遂げられるということが幸せであるという点に関しては今と相違ないのであろうが。
それにしても、なんだか女房を召使の如く考えているような節が見られて、同じ女性としてははなはだ居心地が悪いのも確かである。
この件についてはおいおい、研究してみたいと思っている。