マラソン

人の趣味にケチをつけるつもりではないけれどどうしても理解できない趣味というのがいくつかある。
と同時に、たぶん自分も周りからはそう思われているのだろうなと思う。 

個人的に一番理解できないのがマラソンやランニングなどの走る系趣味。
いや、たしかに趣味であると同時に健康促進にもなりこれで出会いでもあぅて仕事に繋がれば実益もかねた素晴らしいものなのでしょう。
と、頭では理解しつつもどうしても心で納得できないのは学校でさせられた持久走が非常に辛かったという思い出のせいだろうか。
誰しもが経験するあの脇腹の痛さ。頭の中にある持久走のイメージ、感覚ってそんなんだからどうしても好きになれない。
メロス並みに頑張れば早く走れるんですよ、僕は。でもその代償が辛い。
何が楽しくてハァハァ言いながら脇腹抑えながら走らなければならないのか。
思い返せばいろんなことに疑問を持つ子供だったような気がする。
世の中にある色々な通過儀礼みたいなイベントがどうしても納得できなかった。
今になってみれば大人がちゃんとその文化や意味のようなものを説明しなかったからだと思う。
当時の自分は意味も分からずにその通過儀礼に参加させられていることに違和感を抱いていた。
言われた通りに、大人の言う通りにしていればそっちの方が何も考えずに済んで幸せだったかもしれない。
しかし自分はそれに違和感を覚えたがために現実を大人が作った虚構のリアルのような感じがしていた。
そしてその世界に生かされているんだなと。まぁ、半分は当たっていないでもないか。
そんなこんなでマラソンは嫌いな私です。

ランニング中に考えること

朝起きてランニングすることにした。
ほんのちょっとの短い距離だが、意外と疲れる。
そして結構孤独である。
色々考えられる。
そもそもランニングなんてものは人と語り合いながらするものではないから、結局どう転んでも内省的になるものには違いないのだが、本当にいろいろなことを考える時間がある。

まあ大抵は、「苦しい」ということもしくは、そこから派生したことについてであるが。
私は軟弱なのである。
自分で進んで始めたランニングは、始終いつ止まろうかを考えている。
そして、他の人はどうやっているのか、そのことに思いをはせている。
フルマラソンや駅伝をやる人は、一体どうして走りきれるのだろう。
一体何を考えて走っているのだろう。
ランナーズハイってのはどうしてなるのか。
この前観たアスリートが出ていたバラエティ番組では、中距離の選手はランナーズハイになんかならないと言っていたけど、あれは長距離選手特有のものなのか?
私の走っている5キロ弱では、ランナーズハイになんかとてもなれないものだろうか、なれるなら今すぐなってしまいたいけれども。
次の角を曲がったら歩いてしまおうか、いや、でもここでサボり癖をつけてはいけない。
いや、やっぱり無理をしても仕方がない。
というような一連の流れである。
やっぱりあんまり正しい姿勢とはいえそうもないのでがっかりである。
でも不思議なのが、何とか苦しみながら走りきったとき、また走りたい、すぐにでも走りたいと思うのだ。
あんなにいつ止まろうか考えて、諦めかかっていたはずなのに。
それとも、これがランナーズハイということなのだろうか?

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